モーツァルト弦楽五重奏「かなしさは疾走する。涙は追いつけない」

確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いのように、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先にもない出典:小林秀雄『モオツァルト』

今でも、この言葉を読むたびに戦慄します。
小林秀雄がカエサルの『ガリア戦記』について語った時の「サンダルの音が聞こえる、時間が飛び去る」もなかなかですが、この「かなしさは疾走する。涙は追いつけない」という表現には、ただひたすら畏れ入ります。

この「かなしさは疾走する。涙は追いつけない」という言葉は、モーツァルトの弦楽五重奏曲第4番ト短調(K.516)の冒頭の部分を指しています。

ちなみにこの「かなしさは疾走する。涙は追いつけない」は、アンリ・ゲオン『モーツァルトとの散歩』にヒントをもらっているようです。
この本の中では、「足どりの軽い悲しさ (tristesse allante)、言いかえれば、爽やかな悲しさ (allègre tristesse) 」と感想が述べられていますが、小林秀雄はこの「tristesse allante」という表現に感銘を受けたようですね。

アンリ・ゲオンのこの部分は、実はフルート四重奏曲ニ長調の冒頭の部分を指しているようです。

(フルート四重奏曲ニ長調 K.285の)第1楽章(アレグロ)は、1787年の無二の傑作弦楽五重奏曲ト短調(K516)の冒頭部アレグロの最高の力感のうちに見出される新しい音を時として響かせている。それはある種の表現しがたい苦悩で、流れゆく悲しさ(tristesse allante)、言い換えれば、爽快な悲しさ(allegre tristesse)とも言える《テンポ》の速さと対照をなしている。この晴れやかな陰翳という点からみれば、それはモーツァルトにしか存在せず、思うに、彼のアダージオやアンダンテなどのうちのいくつかをよぎる透明な告白よりもずっと特殊なものである。出典:アンリ・ゲオン『モーツァルトとの散歩』

でも、曲調からは、弦楽五重奏曲の方が「かなしさは疾走する。涙は追いつけない」に近い感じもします。

「かなしさは疾走する。涙は追いつけない」というと、どうしてももう一つの短調の名曲をあげないわけにはいきませんね。
モーツァルト交響曲第40番ト短調(K.550)は、小林秀雄が『モオツァルト』の中で「大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。」と言っているのは、この曲の第4楽章です。
このことが理由で「かなしさは疾走する。涙は追いつけない」がこの曲のことを指していると誤解している人もいるようですが、この曲を聴いていると、誤解であってもそれはそれでいいんじゃないの?という気持ちになりますね。

本当に、モーツァルトの短調の曲は、どれも「かなしさは疾走する。涙は追いつけない」と言えそうな気がしてきます。

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